自己愛を失うと、はじめに他罰的になる。
自分が得をすることよりも、不届き者が損をするほうが嬉しくなるからだ。
その次に起こることは、他者への悪感情が振り切れる。
今度は他人がどうでもよくなってくる。
そうなる次第に、自分のこともドンドンどうでもよくなっていき、自暴自棄になる。
俺は他罰的な意識が強かった過去と違って、人を許せるようになったが、
真の人格者が人を許すそれとは違っていたことに気づいた。
同じ人を許す言葉「いいよいいよ!」でも、その後に続く言葉が違う。
デキる人:「いいよいいよ! 俺がやるから!」
俺:「いいよいいよ! 俺もやらないから!」
自己に理由や目的を求めないことは、成長や、それによってもたらされる得を失う。
チームゲーでも人生でも、何においても
「他人が悪い、環境が悪い、運が悪い」は、受け入れる受け入れないまでだけに留まる問題ではなかったのだ。
自分ではどうしようも出来ない自分の外にある原因は「当たり前の現実」であって、そこで止まる結論ではなかった。
「人のせい」にする、しないではない。
「人のせい」なのは「当たり前」 であって、そこで止まらずにその先に自分がどうするか考えるべきだ。
自己愛とは、自分に目を向け成長することで、得をしたり不快を防げる機会の損失を減らすことが出来るものだと気づいた。
自己愛とは、「悔しい、恥ずかしい、情けない」という、自己評価の高さに基づく意識である。
俺が長らく失っていたものだ。
自己評価を高めるには、成功体験を得るのがいいというのが一般論だが、
やる気がなく既に上に言う”自己愛”を失って久しい俺にはどうしたらいいかわからない。
だが、ラッキーと反射だけで生きるようになった俺にも無意識のうちに頑張れていたことがあって、
今日、その頑張れていたことに関して自己愛意識の無さからくる長期的な失敗をしていたことと、頑張れていた事実の二つに気づいたことで、
とても久しぶりに 俺にも”自己愛”(悔しさ、恥ずかしさ)が少し帰ってきた。
それを通じて、この記事に書いたことに気づけたのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿