シャカパチについてのお気持ち表明

俺の野良でのカドショ対戦経験はたった5ヶ月の間、紙のポケカをやってただけなんだが 
シャカパチについてツイッターですごく鼻につく意見を見かけたのがまだ印象に残ってるんだよな
 
「強い人でシャカパチに文句言ってる人見たこと無い」みたいなやつ
 
それを見て俺はシティで優勝したらその実績を振りかざしつつコメントやインターネットでシャカパチ批判をする妄想をしてたんだが、
 
結局プライベートの事情でおいわいファンファーレまであと2、3ptくらいというところでポケカを辞めることになってしまった
 
ジムバと店舗大会で優勝したのは2回?だし、シティリーグも9位とギリギリ本戦に残れない半可通の戦績で終わった
 
悔しかったが、俺がもう紙のTCGをやることは多分ないので
シャカパチについて言いたかったことを書いておく
 
 
●シャカパチを練習する暇があったらファローシャッフルを1フレでも早く済ませる練習をしろ
 
ポケカにおいてシティ以上の大会では、制限時間が切れてから後攻のターンが終わった時に決着がつかないと両者敗北になる
シャカパチは勝負に影響を与えないが、
シャッフルを早く終えることは敗北のリスクを減らすことに繋がる
同じ手を動かす行為だからシャッフルを例に挙げたが、他にも一人回しをしたり確率計算をしたり、どうせ練習をするなら勝ち負けに影響のあることをしたほうが有意義だ
ちなみに俺は手先が不器用なので練習をやってもやってもファローシャッフルがクソ遅いしバラララ!とできずモソッ‥‥モソッ‥‥という感じになってしまっちゃうぞ
 
 
●相手を威圧する行為をわざわざ習得するな 

カードゲームは競技性はあれど、行為としてはボードゲームやTRPGと地続きだ
すなわち生身の人と人とのコミュニケーションである
野良相手にシャカパチをするという貴様は、初対面の相手と普通に会話している時でもいちいち相手を威圧する人間なのか?
それはヤカラや老害のすること、嫌なヤツである
自分に威圧する意図がなくてもシャカパチを威圧的に受け取られるリスクがあることはSNS等を見ればわかるだろうし、受け取る側が威圧だと感じたなら威圧なのである
シャカパチをしてわざわざ嫌なヤツになりにいっているのに、野良にシャカパチをする人間を嫌なヤツでないかのように擁護するのは意味がわからない
 
 
 
これらはバッドマナーを許す許さないというより前段階、
シャカパチはバッドマナーでかつ勝負上の意味もないということだ
 
今回はプライベートの事情のほうが遥かに重要な事柄だったから道半ばだったことに未練はないが
自慢できる実績を振りかざしながらこれを言ったら気持ちよかっただろうな‥‥

ゲームの暴力シーンは残酷で有害なのか?



暴力は、見ていて気分が悪い。

なのにどうして、ゲームやアニメなどの映像作品の暴力シーンは「カッコいい」と思うんだろう?

 

 

それは、映像作品の暴力シーンでは

「身体を傷つける」暴力ではなく、

「拳や剣などを振るう際の動きやエフェクト」、

つまり”演舞”を魅せているからだ。


 

 
●「暴力」と「演舞」の違い

 

 

たとえば、ゲーム『ストリートファイター6』では、

おなじ大技であるSA3でも、リュウの真・昇龍拳はカッコいいのに、

ルークのペイルライダーは大技感がなくただの暴力に見えてしまい、

カッコ悪い(非道な)印象を受ける。

 

リュウの真・昇龍拳は身体の筋肉がすさまじく盛り上がり、

拳の動きがクローズアップされ、

拳が当たるときにピタッという”止め”の動きも見せられている。

つまり、リュウの真・昇龍拳では暴力が「演舞」として描写されていて、

見ているひとに爽快感を与える。

 

しかし、ルークのペイルライダーは馬乗りになって殴るだけだ。

これは実際の総合格闘技のマウントポジションを再現したのだろうが、

リアルの暴力を想起させてしまう。

エフェクトが地味なのも相まって、

ルークのペイルライダーは「演舞」の要素がなくただの暴力に受け取られ、

見るひとに痛ましさを感じさせてしまう。

 

 

「演舞」は演出的な動きを楽しめるのに対し、

単なる「暴力」はリアルな痛みを想起させる。

 

 
●演舞ではない暴力が求められるとき

 

 

一方で、ひとは演舞とは異なる暴力描写を求めることがある。

たとえば、「ホラー映画の恐怖シーン」などだ。

 

 

わざわざ痛みを感じる辛いものが食べたくなるときがあるだろう。

そんなふうに、ホラー作品やグロ画像や不良の喧嘩動画のような、

ストレスを受けるコンテンツを積極的に摂取したいときがある。

そんなとき、演舞ではない暴力シーンが求められる。

 

だが、”快”の「演舞」を求めているときは、

”痛み(不快)”の「暴力」はいらないのである。

 


 ●暴力と演舞を一緒くたにすることで起こる分断


 

 

ゲームの暴力シーンは、見るひとによっては、

「演舞」としての暴力も、そうではない暴力も、

等しく「暴力」であり、悲痛なものに感じられる。

 

そういうひとにとっては、

ゲームをプレイするひとが「非道な暴力ではなく『演舞』の要素を楽しんでいる」ということが、伝わりづらいかもしれない。

 

ゲームを嗜むひとでも、「暴力そのものを楽しむこと」と「演舞を楽しむこと」の違いを認識しづらい。

その結果、「暴力を嫌悪しているのにゲームでは暴力を楽しんでいる」という自己矛盾を抱えてしまう。

転じて、「本当は暴力が嫌だけど、暴力を支持する立場にいないと好きなものが否定されるんじゃないか」と苦悩するかもしれない。

 

「演舞」という視点を理解すれば、

暴力シーンを含むゲームのことを理解する助けになったり、

そういったゲームに対する自分の考えを整理しやすくなったりするのではないだろうか。
 
 
 
 
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※この文章は、アバタラDMの書いた原文を、
知人が「読みづらすぎるクソ文章」と評してわかりやすく書き直したものです。
 
※ヤバいくらい読みやすく、伝わりやすくなってびっくりした

オタクの老いと、不定期日記

俺はほとんどのテキストファイルを「CatMemoNote」というフリーソフトで管理しているんだが、
現在それを利用してローカルファイルのテキストでゲーム日記をつけている
 
どういったものかというと、
ゲームタイトルごとに思ったことを
不定期でまとめて書いていくというもの
 
特にその日プレイして思ったことが中心だが、
必ずしもその日起きたことだけ書かなければいけないというわけではなく
書いた日付の時点での近況的な考えを書いている
 
毎日書くという縛りも設けておらず書きたくなった時に書いており
SNSに投稿しているわけでもないから人目や可読性も気にしないで済むのが楽なのと
タイトルやワードを検索したくなったらファイル内で検索すればすぐに出るから 
気楽、早い、ラクの三拍子で最高だ 
 
 
他にも同じように不定期でゲーム制作雑記、ゲーム哲学、タイトルごとのプレイ感の考察なんかを書いている
 
 
ところで
俺の昔のゲームの見方と最近のそれはちょっと違っていて、
一作品通して映画のレビューのようにタイトルを評価していたのが昔で
今は瞬間ごとの体験を重視している
過去ほどゲームをがっつりとプレイできるような体力気力がいつしか減退して久しいことの影響が一番なんだが
過去の事が思い出しにくくなっているのもあり、
記憶が薄れても印象に残っているシーンを切り取った体験の重要性に着目するようになった
 
 
この良いシーンがあればモチベが上がるなとか満足できるなとか、この萎えポイントは致命的に続きのプレイや繰り返しプレイの阻害をするなみたいな 
 
惰性や意地や、あるいはゲーマーとしての帰属意識という
ゲーム外にあるゲームを続けられてしまうフィルターを抜きにした、直吸いのような目線に近づいた自覚がある
 
 
言ってしまえばオタクの老いなのだが、見方や向き合い方を変えて接すると味がするなという感じ